なぜ、こんなにも悲しくなるのかしら
なぜ、こんなにも嬉しくなるのかしら



彼は知らない。



それを…………
分からない私は、ただ……………悲しく思う

早く彼の心を楽にしてあげてと……願ってしまうわ



「……?」


「え?何?布都彦」


ふいに掛けられた声に、は首を傾げた。
けれど、布都彦の訝しげな表情は変わらない。

だって。









己が内に眠る者 第十話









「……なぜ、泣いているのだ?」


「泣い、て……?」


疑問の声を漏らし、ゆっくりとは自らの頬に指を添えた。
すると、指先を濡らすのは冷たくも温かい雫。


「あ…………」


泣いている理由が、には分からなかった。
ただただ、心が軋むほどに悲しかった。
分からない何かが、胸を駆り立てる。


「なんでも……ない、わ 大丈夫よ、布都彦」


手の甲で涙を拭い、は微笑んだ。
分からないけれど、“今”何かがあって悲しいわけじゃない。

悲しい理由は未知。
でも、“今、なんとかできる事”じゃなかった。


「しかしっ」


「布都彦 みんなに心配かけたくないの……ね?」


しーっと、人差し指を口元に持っていきは呟いた。
前を歩く者に、布都彦との今のやり取りは見えてはいない。



……一番後ろを歩いていて正解だったようね



これを先頭の方を歩いていたら、きっとみんなにバレてしまっていた頃だろう。
分からない涙の理由について、あれやこれやと問われ、途方にくれてしまっていただろう。


「……分かった だが、何かあったら私に言ってほしい」


「ええ、分かったわ 布都彦……」


にこりと微笑み頷いてから、はポツリと布都彦の名前を呼んだ。
呼ばれた布都彦は首を傾げ、どうかしたのかと疑問そうな視線でを見つめていた。


「………ありがとう」


「い、いやっ 礼を言われるような事ではッ……」


ふるふると首を振りながらも、に礼を言われた事に少し照れた様子を見せた布都彦。
守りたいと思っているからこそ、頼られる事が嬉しかったのだ。

だから、布都彦はふわりと微笑みを浮かべた。













脊振山せふりさんに差し掛かった時、忍人はぴたりと足を止めてあたりを見渡した。


「霧が濃くなってきたな」


「確かに、忍人の言うとおりね」


「うん 今歩いてきた道がもう分からないわ……」


忍人の言葉を受け、と千尋はあたりを見渡し呟いた。
白い霧に視界を阻まれ、間近の道しか分からない。


「目的の場所が近づいてきた証ですよ」


にこりと微笑みながら呟く柊に視線を向けると、ちょうど瞳を細める瞬間だった。
右手で髪を耳に掛けながら、柔らかい視線で千尋を見つめた。


「さあ、目的地までもう少しです 急ぎましょう、我が君」


「……待て」


先を進もうとする柊に、忍人は低く唸るようにポツリと呟いた。
その視線は柊を警戒するもので、冷たく射るような目だった。


「おや、どうかしましたか?忍人
 確かに、この全身にまとわりつくような霧は不愉快ですが……」


考えるように左手を顎に添え、深くなりつつある霧を見つめた。
けれど、忍人が言わんとしていることはそうじゃない。


「忍人が恐れるほどのものではないでしょう?」


「……柊、それは違うと思うわ
 たぶん、あなたには酷な言葉かもしれないけれど……忍人は違う事を言わんとしているわ」


「その通りだ 俺は霧など恐れはしない」


の言葉が正しかったのか、忍人は腕を組み真っすぐに柊を見つめた。
その場に漂う空気が、一気にピシリと固まってしまうかのようだった。


「恐れるべきは、人の悪意 不愉快なのは、柊の態度だ」


「────忍ひっ」


「何を企んでいる?」


そこまで言えば、きっと忍人が柊をずっと警戒し続けている事は伝わる。
そう思ったは、慌てて言葉の続きを紡ごうとする忍人を止めようとした。
けれどは忍人の手で制され、紡がせたくなかった言葉がの耳に届いた。

一番近くで。
冷たい声が。


「構いませんよ、


にこりと微笑み、柊はを気に掛けてくれた。
けれど、言わせてしまった言葉には肩を竦めた。


「忍人、あなたもなかなか弁が立つようになりましたね」


「御託は無用だ」


その言葉に柊はハァッと大きく溜め息をついた。


「我が君やあなたが、私を信じられないのももっともな話です
 ですが……いや、だからこそ……………」


言わんとしている事は、その場にいる全員が分かっていた。
こうして向かっている理由。
それは先ほど、八女で話したのだから。


「こうして共に、祠を目指している……………違いますか?」


「葛城将軍、失礼ながら柊殿のおっしゃる通りかと存じます」


グッと拳を握りしめる布都彦を見つめ、は間近にいる忍人を見上げた。
眉間にシワを寄せ、柊を警戒し、視線を片時も外そうとしない忍人がそこにはいた。


「私からも失礼するわ 私達は、柊の言葉を信じてこうして真実を求めるべく祠に向かう事を選んだんじゃないかしら?
 確かに、一軍を預かる者ならば外から来るものを警戒するのは仕方のないことだと思うわ
 それでも………一度みなで決めた事を、今になってもぐちぐち言うのはどうかしら」


「今は柊殿を信じ、歩き続けるべきです」


と布都彦は互いに視線を交え頷き合い、そして布都彦がしっかりとした口調で呟いた。


「柊は嘘をついていないと思う
 だから、今は言い争いはやめて祠へ行こうよ」


「なんというありがたいお言葉でしょう」


嬉しそうに瞳を細め、柊は千尋をまっすぐ見つめた。


「長きにわたって我が君を苛んできた全ての苦悩が………
 その言葉だけで白雪のように溶けていくようです」


ぺらぺらぺらぺらと、まるで決まり文句があるかのように柊は言葉を紡いでいく。
一見、本当に尽くしているのか疑いたくなる態度かもしれない。

それでも、もしかしたら柊はこうでもしなければ何かを信じていられないのかもしれない。


「さて、これ以上霧が濃くなっては大変です
 参りましょうか、我が君」


フッと笑みを浮かべ、柊は千尋に手を差し伸べた。


「………早く、仲直りしてくれればいいのだけれど」


「………は?」


ポツリと、呟いた言葉に忍人が反応を示した。


「……え?」


そんな反応が返ってくるとは思っていなかったは、きょとんとした視線を忍人に向けた。
しばらくの間、忍人とは無言のまま見つめ合っていた。



いったい何を………しているんだ?



見つめ合うと忍人を見て、チクチクとするものを胸に感じた布都彦。
ギュッと右肩に結んだ布の先を掴んだ。


「君は、俺と柊の過去を………知らないはずではないのか?」


「え?そりゃ……知らないわよ?私は数ヶ月前に道臣の所へ来たのだから」


「では、なぜ『仲直りしてくれれば』などと言うんだ?」


そう問われても、には理由が分からない。
ふと、口を割って出てきてしまった言葉なのだから。


「………分からないわ」


「分からない?」


「ええ
 でも…………不思議と、自然とあなた達二人を見ていたらそう思ったの」


それがどこからくる感情なのかは分からない。
まるで知らない自分がここにいるかのように、気持ちが悪い。

ハァッ。

大きな溜め息が一つ。
それは忍人のものだった。


「もういい 分からないのなら、聞いても無駄だ」


そんな忍人の言葉に一瞬キョトンとした表情を浮かべ。


「ふふっ そうね、確かにその通りだわ」


プッと笑ってしまった。










なぜ、仲直りしてほしいと願うのか、その時のには理解出来なかった。
それでも、勝手にそう思い、勝手にそう言葉を発してしまっていた。
全てはいずれ答えのでる問い。
回りはじめた歯車の噛みあうまで………

それをただ、ひたすらに待ち続けるのみだった。










to be continued